日本電子専門学校同窓会 > とくとくコーナー
とくとくコーナー クイズに答えて素敵な賞品をもらおう!
2024年01月
『達人の言葉シリーズ68』
問題: 11月に老衰のため89歳で他界した脚本家・山田太一さんの語った言葉はどれでしょうか?
1. 僕にとって深く「他人」というものを教えてくれたのは女性です。~どんなに仲良くしても他者なんだ、ずっと他者なんだということを教えてくれる。
2. 「豊か」という言葉を辞書で引くと「リッチにして幸せなこと」とある。幸せというのは今に満ち足りていることです。日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった。
3. 言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることの出来るのも言葉だが、相手の急所をグサリと刺して、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉である。
1. 僕にとって深く「他人」というものを教えてくれたのは女性です。~どんなに仲良くしても他者なんだ、ずっと他者なんだということを教えてくれる。
2. 「豊か」という言葉を辞書で引くと「リッチにして幸せなこと」とある。幸せというのは今に満ち足りていることです。日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった。
3. 言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることの出来るのも言葉だが、相手の急所をグサリと刺して、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉である。
■賞品:下記のとおり
■回答:番号でお答えください
■締め切り:2024年02月10日 (土)
■発表:メールマガジン2024年02月25日号にて。
※受付期間を過ぎたもの、必要事項がすべて記入されていないものは無効となります。
※とくとくコーナーはメールマガジン会員様のプレゼント企画です。
ご応募にはメールマガジン会員様に配布されるアクセスキーが必要ですのでご注意下さい。
メールマガジン会員新規登録はコチラ>>
クイズの答え
正解…1
2.は倉本聰
3.は向田邦子
解説: 山田太一さんは1934年6月6日生まれ、東京都台東区浅草の出身です。1958年早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。同窓に劇作家の寺山修司さんがいて、深い親交を結びます。小説家志望で、教師になれば休みの間に小説が書けると目論みましたが、折からの就職難で教職に就けず、松竹大船が助監督を募集していることを知り、松竹に入社し、木下恵介監督に師事。同監督の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めます。1965年に松竹を退社、フリーの脚本家になりますが、木下恵介監督との付き合いはその後も続き、同監督の勧めで1968年、木下恵介アワーの『3人家族』の脚本を執筆、高視聴率を上げます。1973年の『それぞれの秋』で芸術選奨新人賞を受賞。
1976年にNHKが脚本家の名前を冠した「脚本家シリーズ」を開始、第一回目が山田太一シリーズで、『男たちの旅路』が大人気で1982年まで断続的に継続しました。中でも1979年の第3部のエピソード「シルバー・シート」は第32回芸術祭ドラマ部門大賞を受賞しました。また第4部の『車輪の一歩』は、バリアフリーが今ほど進んでいない時代に、障害者の問題に真正面から向き合った異色の作品で、数多い山田太一さん脚本のドラマの中でも、名作中の名作と言われています。
その後も『岸辺のアルバム』『獅子の時代』『想い出づくり。』『ふぞろいの林檎たち』とヒット作を連発、特に『想い出づくり。』は、倉本聰さんの『北の国から』が裏番組にあり、2大ライターの対決と騒がれました。
1990年以降は、「連続ものは自分に合わない」として手を引きますが、2009年『ありふれた奇跡』で12年ぶりに連続ドラマに復帰しました。また小説家としても才能を発揮し、1988年に出版した『異人たちとの夏』で第一回山本周五郎賞を受賞。主な小説作品に『飛ぶ夢をしばらく見ない』『冬の蜃気楼』『終りに見た街』『空也上人がいた』などがあります。
2017年に脳出血を患い、週刊誌のインタビューで事実上の断筆宣言。2019年頃からマスコミと連絡が取れなくなり、2023年11月29日、老衰のため川崎市の施設で亡くなりました。
●山田太一さんのその他の名言
「短い間だれかに夢中になるということはだれにでもある。しかし、長くひとりの人間を愛しつづけるということは、ほっといてできることではない。」
「良い条件が揃っている人間というのは、それだけ多くのチャンスを失っているという気がする」
「マイナスの経験をした人は有利です。してない人は、人の気持ちが分からなくなっている。分からないことすら気づかずに生きてしまう。」
「前に進むことだけが幸福ではない」
2.は倉本聰
3.は向田邦子
解説: 山田太一さんは1934年6月6日生まれ、東京都台東区浅草の出身です。1958年早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。同窓に劇作家の寺山修司さんがいて、深い親交を結びます。小説家志望で、教師になれば休みの間に小説が書けると目論みましたが、折からの就職難で教職に就けず、松竹大船が助監督を募集していることを知り、松竹に入社し、木下恵介監督に師事。同監督の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めます。1965年に松竹を退社、フリーの脚本家になりますが、木下恵介監督との付き合いはその後も続き、同監督の勧めで1968年、木下恵介アワーの『3人家族』の脚本を執筆、高視聴率を上げます。1973年の『それぞれの秋』で芸術選奨新人賞を受賞。
1976年にNHKが脚本家の名前を冠した「脚本家シリーズ」を開始、第一回目が山田太一シリーズで、『男たちの旅路』が大人気で1982年まで断続的に継続しました。中でも1979年の第3部のエピソード「シルバー・シート」は第32回芸術祭ドラマ部門大賞を受賞しました。また第4部の『車輪の一歩』は、バリアフリーが今ほど進んでいない時代に、障害者の問題に真正面から向き合った異色の作品で、数多い山田太一さん脚本のドラマの中でも、名作中の名作と言われています。
その後も『岸辺のアルバム』『獅子の時代』『想い出づくり。』『ふぞろいの林檎たち』とヒット作を連発、特に『想い出づくり。』は、倉本聰さんの『北の国から』が裏番組にあり、2大ライターの対決と騒がれました。
1990年以降は、「連続ものは自分に合わない」として手を引きますが、2009年『ありふれた奇跡』で12年ぶりに連続ドラマに復帰しました。また小説家としても才能を発揮し、1988年に出版した『異人たちとの夏』で第一回山本周五郎賞を受賞。主な小説作品に『飛ぶ夢をしばらく見ない』『冬の蜃気楼』『終りに見た街』『空也上人がいた』などがあります。
2017年に脳出血を患い、週刊誌のインタビューで事実上の断筆宣言。2019年頃からマスコミと連絡が取れなくなり、2023年11月29日、老衰のため川崎市の施設で亡くなりました。
●山田太一さんのその他の名言
「短い間だれかに夢中になるということはだれにでもある。しかし、長くひとりの人間を愛しつづけるということは、ほっといてできることではない。」
「良い条件が揃っている人間というのは、それだけ多くのチャンスを失っているという気がする」
「マイナスの経験をした人は有利です。してない人は、人の気持ちが分からなくなっている。分からないことすら気づかずに生きてしまう。」
「前に進むことだけが幸福ではない」
【 当選発表 】
T.Hさん ゲーム制作科 2007年卒業
O.Rさん 夜間部電気工事士科 2014年卒業
I.Kさん コンピュータグラフィックス研究科 2019年卒業
T.Hさん ゲーム制作科 2007年卒業
O.Rさん 夜間部電気工事士科 2014年卒業
I.Kさん コンピュータグラフィックス研究科 2019年卒業
賞品詳細
賞品1
Amazonギフト券 1万円分を応募数20名あたり1名に!
- 次へ>>
- 136
- 135
- 134
- 133
- 132
- 131
- 130
- 129
- 128
- 127
- 126
- 125
- 124
- 123
- 122
- 121
- 120
- 119
- 118
- 117
- 116
- 115
- 114
- 113
- 112
- 111
- 110
- 109
- 108
- 107
- 106
- 105
- 104
- 103
- 102
- 101
- 100
- 99
- 98
- 97
- 96
- 95
- 94
- 93
- 92
- 91
- 90
- 89
- 88
- 87
- 86
- 85
- 84
- 83
- 82
- 81
- 80
- 79
- 78
- 77
- 76
- 75
- 74
- 73
- 72
- 71
- 70
- 69
- 68
- 67
- 66
- 65
- 64
- 63
- 62
- 61
- 60
- 59
- 58
- 57
- 56
- 55
- 54
- 53
- 52
- 51
- 50
- 49
- 48
- 47
- 46
- 45
- 44
- 43
- 42
- 41
- 40
- 39
- 38
- 37
- 36
- 35
- 34
- 33
- 32
- 31
- 30
- 29
- 28
- 27
- 26
- 25
- 24
- 23
- 22
- 21
- 20
- 19
- 18
- 17
- 16
- 15
- 14
- 13
- 12
- 11
- 10
- 9
- 8
- 7
- 6
- 5
- 4
- 3
- 2
- 1
- <<前へ